■板垣株式会社(三輝工業)
●かつて半世紀前に群馬県の地に世界に名だたるメーカ-がありました。
現在もその伝統を引き継いだ血脈のメーカ-が存在します。
●1933年に群馬県伊勢崎市において前身の伊勢崎航空機工業が中島飛行機の航空部品の製造を開始。
●1945年に板垣が自転車発電用ランプの製造を開始し、翌1948年には傘下企業の三輝工業が製造を
始める。
●1954年に自転車用取付エンジンの製造を開始し、1956年にオートバイ事業に参入し、三輝工業を販売
会社としてサンライトSMR22を製造した。
●1958年からは自転車取付用エンジンの製造販売を中止し、板垣の名前でサンライトキングモーペッドC1
を製造販売し、1959年にはミリオンサンライトC10型、サンライトロイヤル、サンライトクイン
モーペットを製造した。
●1960年にクインサンライト50S7型、クインサンライト125S5、1961年にクインサンライトジュニアを
製造販売した後に富士重工業に吸収合併された。その後もラビットスクーターなどのスクーターを
製造した。
数多くの日本の優秀なエンジニアを育て上げ、のちの日本に於ける自動車産業に多大な影響を与えた中島飛行機。敗戦によって姿を消した東洋最大の航空機メーカーは、いかにして今日に血脈をつないだのか。スバル及びプリンス誕生の経緯と共に振り返ります。
中島飛行機が戦略爆撃機の目標となったのは、日本の戦力を奪うのに最も効果的だったからだ。第2次世界大戦では、航空機による戦闘の重要性が飛躍的に高まった。制空権を得た側が圧倒的に有利に戦いを進めることができたので、優れた性能を持つ航空機を持つことが不可欠となる。戦闘機や爆撃機のエンジンと機体の組み立てを担っており、その生産能力を奪ってしまえば日本の戦力が大幅にダウンすると見込まれていた。日本で1927年から1945年までに生産された3万0578機の戦闘機のうち、半数以上の1万6763機が中島飛行機で作られている。アメリカ軍が爆撃の第1目標にしたのは当然である。
戦争の時代に生まれて兵器となる航空機を生産したが、中島飛行機がその中で培った技術力は、戦後に平和な産業で大きく花開くことになる。1953年に誕生した富士重工業(2017年にSUBARUに商号変更)は、中島飛行機が離合集散を重ねた末にたどり着いた姿だ。同社の業績は戦後の日本自動車史の中で重要な位置を占め、また水平対向エンジンと四輪駆動を組み合わせたユニークなパワートレインによって世界に知られる存在ともなっている。
軍隊をやめて航空機製造会社を立ち上げる
1884年(明治17年)に群馬県新田郡尾島村(現在の太田市)の農家に生まれたのが、中島知久平である。長男として家業を継ぐ立場だったが、ロシアなどの三国干渉に憤り、軍人になることを決意する。中学への進学を許されなかった彼は16歳になると家出して上京し、3年後に海軍機関学校に入学。優秀な成績で卒業し、晴れて海軍軍人となった。しかし、その時すでに中島の関心は船から飛行機に移っていた。1903年にライト兄弟が初飛行に成功し、その将来性に心を奪われたのである。
当時の飛行機は誕生したばかりで、性能は貧弱なものだった。有意義な兵器になると考える者は誰もいなかったが、中島は早くから飛行機の価値を高く評価し、研究を開始した。海軍大学の選科学生となり、海軍航空術研究委員会に参加。アメリカに渡り、飛行士のライセンスを取得する。その過程で飛行機が必ず国防の主役になるという確信は強まったが、軍隊では飛行機を活用しようという動きがなかなか広まらない。やがて彼は、軍隊にとどまるよりも民間で航空機の事業を立ち上げた方が効率的であると考えるようになった。1917年、中島は海軍を退役し、故郷に飛行機研究所を設立する。現在の太田・大泉地区になります。(富士重工・元三洋電機東京製作所)
中島はまず機体の製作にとりかかり、失敗を重ねた後にホールスコット120馬力エンジンを搭載した「四型」を作り上げた。ようやく満足のいく仕上がりとなった機体で、その改良型である「五型」でついに118機の量産を果たした。中島飛行機と改称していた飛行機工場は本格的な生産を開始する。1925年には東京に工場を設置し、エンジンの製作も始めた。事業を軌道にのせたところで、中島は政治家に転身する。1930年に衆議院議員に初当選した彼は、後に近衛内閣と東久邇内閣で閣僚を務めることになる。
自動車製造に転身した技術者たち
戦争が終わると、軍需工場である中島飛行機は生産中止を余儀なくされる。もっとも、B29の爆撃によって工場は破壊しつくされており、生産能力はほとんど失われていた。終戦の翌日には定款を変更して富士産業株式会社と改称。平和産業への転換を模索したわけだが、GHQは4大財閥に準ずるものとして解体命令を下した。
富士産業は12社に分けられ、それぞれに民需転換を図っていく。ただ、GHQは航空機の研究・生産を禁じていたので、他の分野に進出しなければならなかった。戦災を免れた機械を使い、鍋や釜、乳母車などを作って当座の糧としたが、最先端の技術を担っていたエンジニアたちにとって能力を十分に生かせる仕事ではない。太田工場と三鷹工場では、スクーターの製造に乗り出した。残っていた爆撃機「銀河」の尾輪を利用し、135cc単気筒エンジンを載せたモデルを試作。「ラビット」と名付けて量産すると、手軽な乗りものとして人気を博した。
一方、伊勢崎工場が母体となった富士自動車工業では、戦中「誉」エンジンの改造を担当していたエンジニアの百瀬晋六がバスボディーの設計を始めていた。モノコックを採用したリアエンジンバスで、残っていたジュラルミンの薄板にリベットを打って仕上げたものだ。飛行機を作ることはできなかったが、同じ技術を使ってバスを作ったのである。